ビル・ゲイツ2.0

 今週号のTIMEを眺めていたら、ビル・ゲイツのことが書かれていたので、そのことを適宜参照しつつ、ビル・ゲイツについて述べる。
 今回の記事によると、ビル・ゲイツは、名誉学位をもらうために、ハーバード大学を訪れたという。ソフトウェア会社を立ち上げるために中退したビル・ゲイツにとって、名誉学位なんて今更、どうでもいいと思うのだけれども、TIMEの記事がふるっている、すなわち、ビル1.0とビル2.0の隙間を、これが埋めるのだ、と。
 ビル1.0とは言うまでもなく、マイクロソフトを立ち上げ、CEOとしてガンガンにやっていた頃のビル・ゲイツ。ビル2.0とは、今の、慈善活動家としてのビル・ゲイツ。まあ、流行の言い方である。
 それにしても、ビル1.0は、どうしてあそこまで発展し成功したのだろう、きっと誰もが抱く疑問というか、感慨であろう。それで理由を考えると、まず第1は、マイクロプロセッサの勃興にうまく目をつけ、これが世界を変える、と信じたことだろう。すると、そもそもマイクロプロセッサの上で動く便利なソフトなんかない訳だから、自分で書くよりない。こうしてマイクロプロセッサを使ったシステムにのめり込んで行ったのが第1点。
 第2に、マイクロプロセッサを使ったシステムを広めようとする強烈な意志。ゲイツは、マザコンで、母親にも使えるシステムを、という思いが強かったようだ。
 第3に、運がよかった。1970年代の末期、IBMは、マイクロプロセッサ上のOSを作れるスキルがあったに違いない。なにしろ、マイクロプロセッサといっても、メインフレームとアーキテクチャが大して違う訳ではない。でも、IBMは、BIOSは書いたけれども、マイクロプロセッサ用のOSの作成を、マイクロソフトに任せてしまった。きっと、当時、その重要性が分からなかったのだろう。こうして、マイクロソフトは、MS−DOSをリリースし、大成功を収める。
 第4に、ビル・ゲイツは、とても優れたビジョンの持ち主だった。というのは、MS−DOS→Windows3.1の路線で大成功を収めてきたのに、突然、デービット・カトラーを雇い、今までの異なる文化の下、堅牢な、サーバにも堪える真の32ビットOSの開発に着手する。実際、その結果出来上がったWindows NTがなければ、今日のマイクロソフトはない。
 第5に手段を選ばぬ強引さ。IEで、ネットスケープを封じ込めたあたりなど、その白眉であろう。
 ただ、TIMEは説く。ゲイツは、とてもよい時期にマイクロソフトから降りたのだ、と。というのは、iPodは審美的な革命であり、MySpaceは、社会的な革命であり、YouTubeは、エンターテイメント的な革命であり、どれも、マイクロソフトは得意でないからである。それをゲイツが、意識していたのかどうかはわからないけど、もう、ソフトウェアの分野で、これ以上大きく世界を変えることができない、と悟ったのかもしれない。
 そこでゲイツは、慈善事業の分野で、その豊富な資金で、世界を変えようとする。フォーカスするのは、保健というか健康と、教育。その分野がゲイツに得意とは、とても思えない。ただ、とても意義深く、チャレンジングであるのは確かで、ゲイツは、残りの人生でそこに生きがいを見出そうとしているのだろう。

引用

小泉元総理ラジオで語るから
  平成18年4月15日放送

 そうですね。総理は、就任なさってから5年近く、戦後の歴代首相の中で3番目の長期政権になりましたけれども。
 何でここまでやったこれたかというのはよくわからないんですけれども、やはり使命感でしょうね。やらなければならないと、やっぱり自ら望んでこの職に就いたんだと。そして多くの人が支えてくれると、改革が必要だと思ってくれているという、その支援と協力、これが私を支えてくれた。

 それと運でしょうね。徳ある者はとかく才能がない、才能ある者は徳がないと言われますけれども、私には徳も才能もあまりないけれども、運が強かったんじゃないかな。これからも、運がいいなと思いながら、残された任期を精一杯頑張っていきたいと思っているんです。


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